緑一緑盛会沿革

 緑盛会発足当時の記録。資料が戦災により不明な所があるが、昭和5年頃の創立でありこの年代の頃は関東大震災により本所地区の壊滅的な打撃からようやく立ち直り帝都復興祭が催されている。天皇陛下慰霊堂に行幸第14代永田秀次郎市長就任、農村の危機は益々深刻化するに 反して都会は、エロ・グロ・ナンセンス時代、カフェーの流行、昭和2年ウォール街の大暴落、昭和4年、浜口内閣による、金輸出解禁と不景気のどん底の時代であった、労働者は生活の困難から市電のゼネスト・煙突男の出現、昭和3年3.15事件、共産党の弾圧とファシズム打倒はやがて昭和6年満州事変が起こり軍国主義へ突入していった緑盛会は現在の松山ビルのあたりより2丁目の森杉商事鰍たり迄を基盤とし昭和10年頃道路の両側(当時大正通り)商店街の振興を図り、各商店が道の北側に夜店を自分の店と違う業種などを出すなどし当時夜台コリントゲーム等を出店していた昭和12年地区的商業組合の成立により助成を得て緑一丁目〜三っ目通りに至る参加店にネオンが取り付けられた。昭和13年秋大型台風の為にほとんど全滅した。時代は益々非常となりついに復興を得ずに終わった。その後、緑一緑盛会となり初代会長区議会議員小栗氏()又は吉村新蔵氏()どちらかは定かでない。にて発足し、第2代伊藤薫氏()に。この前後に第二次世界大戦、太平洋戦争と戦時体制下では商店会活動も制約された事と、墨田地区は全滅的な打撃を受け一夜にして焦土化しやがて終戦を迎える。戦後の復旧はバラック小屋で商店も徐所に復帰し、昭和23年頃には大体復興されている。緑一緑盛会の再建は伊藤薫氏()の努力により第3代河合新一氏()のもと発足をしこの頃の売出しは、中元セールと年末セールの売出しの年2回行い、抽選機によりこの頃としては豪華な箪笥とか白黒のテレビ等が当たり、又美人コンテスト大会の催しを行う。昭和30年第4代白木三郎氏()緑連合商店会にて中元、歳末の売出しを行う。昭和38年緑盛会の(二世会)八日会が発足する。昭和40年緑連合商店会の売出しで50円・100円・500円・1000円が当たる三角くじを行う。昭和45年第5代松居作蔵氏()の時緑一緑盛会として、よりどりみどりの みどり市を第一勧銀の駐車場の所で会員が出店を出し、特安値にて良い商品を販売する市を開催する昭和50年墨田まつりに参加をする。平成2年第6代岡野耕二氏の時、緑連合商店会の三角くじを 年に2回開催をする。墨田まつりに参加をし、スクラッチカードにてお客様に東南アジア旅行豪華な食事の日帰り旅行等が当たる。平成12年第7代横手喜一氏になり永年続いた(二世会)八日会が緑盛会に合流する。又平成14に緑連合商店会の現金の当たる三角くじが廃止に迫られる平成15年に植木市をみずほ銀行の空地にて花屋さんが販売をし緑一緑盛会会員がボランティアにて手伝い300人の方に緑一緑盛会の費用にて、小鉢を無料にて配布をする。延べ3,000のお客さんがみえ4月・5月・11月に行った平成16年第8代東京都都議会議員桜井武氏により平成16年4月19日〜30日迄カラー歩道完成記念大売出しと植木市を開催。緑一緑盛会始めての試みとして全会員が協力をし、金券セール及び割引セールを行う。この時に合わせ、街路樹のハナミズキの木にストリートギャラリーとし小学校の子供達に、『タバコのポイ捨ては止めよう』のスローガンにて絵を描いてもらいそれをPTAの方々に展示をしてもらう。この様な絵を続けたい。現在の会員数は売出し等を行う会員数が23店舗・準会員数が22店舗・45店舗にて商店会を構成している。緑一緑盛会としては国道と都道に面しているので、必ずとも商店会としての立地条件は良くないが、これからも老舗の店が多い商店会として緑一緑盛会として栄える商店会にしたい。